目次
安東(蛎崎)/南部(大浦)/浪岡北畠/小野寺/戸沢/最上/大崎(奥州斯波)/葛西/伊達/二本松畠山/相馬/岩城/田村/蘆名/白河/越後上杉(→上杉家)(武藤大宝寺)
元は津軽地方の豪族。十三湊(とさみなと)を本拠に勢力を拡大し、鎌倉末期には藤崎城(現南津軽郡藤崎町)を中心とした上国家と、十三湊を本拠とした下国家に分かれた。
室町時代に入り、南部氏が津軽に侵攻するようになると、蝦夷地に逃れ、まもなく出羽に戻って檜山に城を築き、そこを本拠とした檜山安東氏と、津軽からそのまま南下して秋田郡の湊(現秋田市土崎周辺)に移動した湊安東氏に分かれた。これらが統一されるようになるのは戦国後期になってからである。
奥州仕置では領土を残されたが、関ヶ原で東軍についたものの最上に讒訴され、佐竹氏との交換で常陸国宍戸(現笠間市(旧友部町中心街))へ転封された。さらに陸奥三春(現福島県三春町)に転封され、幕末まで存続した。
ゲームでは、安東・蛎崎の水軍力の高さが強いため、海上戦ならば南部と渡り合えるレベルだろう。ただし蛎崎親子の義理が低いところが問題点か。
檜山系安東氏の第4代当主。初名を師季(もろすえ)といった。分家の潮潟家出身だったが、南部氏の捕虜となり田名部(たなぶ、現むつ市田名部)を知行、「安東太」を称す。後に南部氏との戦いに敗れると、武田信広(後述)とともに蝦夷地の蛎崎季繁に身を寄せる。
後に安東家政・下国定季・蛎崎季繁を守護に任じ、檜山郡に檜山城を築城する。その後も勢力拡大に尽力するが、家臣長木大和に討たれた。
若狭の守護大名・武田信賢の子と伝わるが、年齢的にも信憑性が低い(誕生の時点で12歳のため)。また、南部家出身との説もある。1452年、21歳の時に家臣を連れて出奔、古河公方足利成氏のもとに行った後、南部光政のもとへ移る。田名部・蛎崎(現むつ市川内町蛎崎)を知行。コシャマインの戦いでアイヌを打ち破り、蝦夷地の勢力を築いた。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
安東政季 | 大名 | 1420 | 70 | 9 | 132 | 154 | 108 | 99 | 82 | C | B | B | 55 | |
安東定季 | 部将 | 1426 | 60 | 8 | 90 | 90 | 90 | 55 | 44 | D | D | D | 55 | |
安東恒季 | 侍大将 | 1445 | 60 | 5 | 50 | 132 | 66 | 26 | 82 | C | C | D | 焼討 | 55 |
安東忠季 | 部将 | 1451 | 60 | 5 | 150 | 92 | 100 | 71 | 54 | D | E | C | 挑発 | 55 |
安東尋季 | 1495 | 1481 | 60 | 8 | 82 | 42 | 40 | 61 | 42 | D | E | D | 55 | |
安東尭季 | 1506 | 1492 | 60 | 10 | 110 | 118 | 108 | 63 | 64 | C | E | C | 55 | |
蛎崎信広 | 家老 | 1431 | 70 | 4 | 176 | 92 | 186 | 78 | 85 | C | C | A | 流言 挑発 |
56 |
蛎崎光広 | 1470 | 1456 | 70 | 2 | 148 | 136 | 176 | 62 | 87 | D | D | C | 流言 焼討 |
56 |
陸奥の武家で本貫地は甲斐国南部郷(現在の山梨県南部町)、清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美遠光(かがみ とおみつ)の三男とされる、南部光行を始祖とする。
奥州平泉攻撃の際、藤原泰衡軍との合戦で功を立て、陸奥国糠部五郡(上北・下北・二戸・三戸・九戸郡=現青森県東部から岩手県九戸郡にわたる地域)を給したとされる。
13代南部守行の代に陸奥北部の最大勢力とあるが、安東氏との対立や大浦氏など一族内の実力者の統制がうまくいかず内紛が相次ぎ、ちょうど応仁の乱前後の動向については不明な部分も多い。
全盛期を迎えるのは24代南部晴政の頃である。陸奥北部を掌握し、織田信長とも誼を通じるなどの外交を展開するが、石川高信の子石川信直(後の26代当主南部信直)との対立や大浦(津軽)為信の挙兵もあって内訌を抱えていた。
奥州仕置では津軽が真っ先に豊臣に臣従したため津軽地方の勢力を失ったが、代替として和賀・稗貫(現在の北上市・花巻市にあたる)を加増され、幕末まで存続した。
ゲームでは、騎馬力の高さと戦闘力の高さが鍵となる。
第18代当主、第15代南部政盛の子。応仁の乱に際しては、足利義政に献じて中央への外交工作に努めたが、小野寺氏の勃興によって出羽方面への足がかりであった仙北・上浦地方の所領を失うなど、勢力拡大には失敗した。
八戸南部氏第14代当主。北奥羽の有力大名として上洛し、将軍足利義政や天皇の御前で横笛を吹いて賞される。また、宗家21代当主南部信義が死去した際、翌日生まれた嫡子北致愛(きた むねちか)に横槍を入れ、信義の兄政康を当主にした。
また、甲斐国主武田信虎とも親交があったとも言われているため、相当長生きしていたと思われる(二代という可能性もあるが)。
※(余談)別のシミュレーションゲーム「戦国史」のサンプルシナリオVer.2にも登場しており、説明欄に『度々上洛し、将軍、天皇の御前で横笛の腕前を披露した』と、この信長と類似したことが記載されているが、設定生没年が1518-1567となっており(先述の通り信長足利義政と謁見しているため)おそらく誤表記と思われる。なお、混合されやすい人物としてかつて南部信長を称していた久慈南部氏の久慈治義(津軽為信の父という説がある)もいるが、その人物は久慈治義名義で登場している。
大浦氏(津軽氏)の系譜には諸説あるが多くの系図では、南部氏の庶家、久慈南部氏の一族、大浦光信を祖とする津軽大浦氏として家系を始めており、1491年、十三安東氏残党の反攻に対処させるため、久慈から津軽西浜種里(現青森県鰺ヶ沢町種里)に移封したと伝えられている。
5代目為信の代に謀反を起こし、津軽郡一帯を奪う。その後は石田三成を介して秀吉と誼を通じ、津軽三郡の及び合浦一帯の領国を安堵された。
関ヶ原では東軍につき(但し三成との関係は深く、長男信建は三成の子を連れて帰国している)、そのまま幕末まで存続した。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
南部時政 | 大名 | 1410 | 60 | 7 | 86 | 120 | 110 | 45 | 72 | C | B | E | 20 | |
南部通継 | 侍大将 | 1436 | 50 | 6 | 88 | 104 | 96 | 72 | 55 | E | C | E | 20 | |
南部信時 | 侍大将 | 1442 | 60 | 6 | 124 | 130 | 104 | 76 | 57 | D | C | E | 20 | |
南部信義 | 1477 | 1463 | 40 | 6 | 100 | 140 | 100 | 62 | 55 | D | B | E | 焼討 | 20 |
南部政康 | 1475 | 1461 | 70 | 8 | 106 | 146 | 80 | 66 | 70 | D | B | E | 20 | |
南部安信 | 1507 | 1493 | 50 | 6 | 134 | 110 | 138 | 68 | 70 | C | C | E | 弁舌 | 20 |
八戸信長 | 部将 | 1450 | 100 | 8 | 180 | 110 | 100 | 92 | 59 | C | C | E | 流出 | 20 |
大浦光信 | 1474 | 1460 | 60 | 13 | 150 | 124 | 154 | 80 | 79 | C | C | E | 流言 | 59 |
大浦盛信 | 1493 | 1479 | 60 | 9 | 124 | 116 | 142 | 65 | 52 | C | D | E | 59 |
北畠氏も参照
浪岡氏は南北朝時代を支えた北畠顕家の子、北畠顕成(きたばたけ あきなり)が1373年に浪岡に入部したことに始まる(開始時期については諸説あり)。顕家が鎮守府大将軍に任ぜられていたことから「浪岡御所」と称された。
4代目浪岡顕義の代に、それまでの源常館から新たに築城した浪岡城へと移り、さらに勢力を維持・拡大した。6代目具永の時期に全盛期を迎え、寺社を修復し、津軽の地に京都の文化をもたらすなどの功績を作ったが、それによって財政が悪化。1562年の「川原御所の変」で傾き始め、最終的には1579年に津軽為信によって滅ぼされた。子孫は南部氏や安東氏の家臣となっている。
ゲームでは、(関係は悪くないので)おそらく速攻で滅ぼされはしないだろうが、安東から崩すか南部から崩すかは難しいところかもしれない。立ち回りは考えどころ。
浪岡北畠氏4代当主。応仁年間に浪岡城を築城し、その後の繁栄の基礎を作った。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
浪岡顕義 | 大名 | 1420 | 70 | 9 | 150 | 50 | 120 | 88 | 45 | D | D | E | 27 | |
浪岡顕具 | 部将 | 1441 | 60 | 11 | 150 | 46 | 104 | 63 | 37 | E | E | E | 27 | |
浪岡具永 | 1481 | 1467 | 90 | 7 | 156 | 94 | 130 | 56 | 59 | D | D | E | 27 | |
浪岡具統 | 1507 | 1493 | 60 | 7 | 116 | 78 | 102 | 62 | 25 | D | E | E | 27 |
小野寺氏は平安時代後半に下野国都賀郡小野寺(現在の栃木市岩舟町小野寺)を「一所懸命」の地としたことが始まりとされる。文治5年(1189年)の奥州合戦による戦功で出羽雄勝郡などの地頭職を得る。南北朝時代は当初南朝方として活躍していたが、後に室町幕府に降る。足利将軍と鎌倉公方の和睦後、陸羽両国は鎌倉府の管轄となり小野寺氏も鎌倉に出仕したが、鎌倉公方の支配に反発したほかの有力国人と同様、室町幕府の京都扶持衆(きょうとふちしゅう)となり、鎌倉公方に対立した。
10代当主小野寺泰道の代に南部氏に反旗を翻し、仙北地方から南部氏を追い出す。この戦いで宗家の小野寺道有が戦死したため、泰道が仙北の領主になる。
その後、13代当主小野寺輝道の代に全盛期を迎え、北は山本郡(北浦)から南は最上地方・由利地方にまで勢力を広げる。だが、その子の14代当主小野寺義道の代には最上義光(もがみ よしあき)の調略に苦しみ、領土の大半を失う。関ヶ原では西軍に付き改易、石見国津和野へと流された。
ゲームでは、初期から南部氏と対立している。場合によっては即滅亡の危機すらあるだろう。
仙北小野寺氏10代目当主。1458年には南部氏に降ったが、1465年に反旗を翻し、激戦の末勝利する。この戦いで宗家の小野寺道有が戦死したため、泰道が仙北の領主となった。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
小野寺泰道 | 大名 | 1403 | 80 | 55 | 124 | 160 | 142 | 82 | 72 | C | C | E | 焼討 | 106 |
小野寺景道 | 部将 | 1443 | 50 | 6 | 100 | 98 | 106 | 60 | 40 | D | D | E | 106 | |
小野寺惟道 | 1501 | 1487 | 60 | 10 | 114 | 128 | 62 | 64 | 50 | D | C | E | 106 | |
小野寺晴道 | 部将 | 1449 | 70 | 15 | 146 | 130 | 70 | 73 | 5 | D | C | E | 106 |
戸沢氏は平忠正の子、平維盛より始まり大和国三輪(現奈良県桜井市三輪)を本拠地としていたが、木曽義仲に属していた不義を憎み磐手郡滴石庄(現岩手県雫石町)に下向した。源頼朝に臣従し、滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。後に奥羽山脈を越えた山本郡鳳仙台の館に移り、その後門屋に移って門屋城に移った。
応仁2年、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ仙北から撤退すると、15代当主戸沢秀盛は北浦郡(現仙北市=角館・田沢湖周辺)を統一し、仙北三郡の覇権をめぐり小野寺氏・安東氏との抗争を開始する。1527年の二度目の安東氏との対決で、一時は家中分解の危機に瀕したが引き分けに持ち込み、家臣の結束を高め戦国大名化に成功する。
秀盛の子戸沢道盛の代に、後見人を務める叔父の忠盛にクーデターを起こされる。しかしクーデターは失敗し、道盛が角館に復帰する。この時期に小野寺氏が攻略を開始し、その間に南部氏に雫石を奪われるなど窮地に追い込まれるものの、家臣団の必死の抵抗で小野寺氏を追いやる事に成功した。
道盛の子戸沢盛安の代に、小野寺氏や安東氏を破って仙北三郡を平定し、全盛期を迎える。中央の動静にも絶えず注目し、小田原征伐にはいち早く参陣し所領安堵をされるも、参陣中に突然病死した。
関ヶ原では東軍につくも、秋田氏の勢力増大を恐れ消極策に終始し、転封させられる。その後は鳥居氏と縁戚関係を結び、最上改易後に新庄へ転封され、明治維新まで存続した。
戸沢氏14代当主。父・祖父が30代で病死し、14歳で曾祖父・家盛に後見を受ける。19歳のとき家盛も亡くなり、新戸沢氏体制を築いて勢力拡大へと邁進する。小笠原氏との関係をさらに強化しつつ、最盛期を迎えていた南の小野寺氏と無理に対決はせず周囲の土豪を組み込むことを選んだ。後にこれが子秀盛の代に大きな躍進を迎える要因となった。
戸沢家臣、征盛の三男。小館に住んだといわれる。なぜか名前で検索すると小説家になろうが検索して上段に出てくる人物。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
戸沢征盛 | 大名 | 1447 | 50 | 7 | 126 | 130 | 100 | 58 | 66 | D | C | E | 65 | |
戸沢秀盛 | 1479 | 1466 | 70 | 6 | 110 | 88 | 110 | 59 | 48 | D | D | E | 65 | |
戸沢忠盛 | 1489 | 1475 | 70 | 3 | 70 | 126 | 100 | 25 | 70 | D | C | E | 焼討 | 65 |
戸沢政重 | 1507 | 1493 | 90 | 7 | 108 | 98 | 152 | 53 | 48 | D | D | E | 弁舌 | 65 |
最上氏は斯波氏傍流の斯波家兼の次男、斯波兼頼が出羽国按察使として出羽国最上郡山形に入部したことに始まる。室町幕府に屋形号を許されたことを期に最上氏を称するようになった(ちなみに、家兼の長男の系統が大崎氏である)。室町時代初期には南朝勢力を倒しつつ、氏族を分散配置することにより勢力を伸長させた。その後は伊達氏に敗れ、当時2歳の最上義守を傀儡に伊達の従属下に置かれたが、成長した義守は長谷堂城を奪還、そしてその子最上義光の代になると庶家の天童氏や近隣の氏族を滅ぼし最上・村山郡を平定した。
関ヶ原では東軍につき、57万石(実高は100万石とも)を有する大藩となったが、家中争いもあって改易。宗家の斯波武衛家が断絶していたため、最上氏は断絶を惜しまれて改めて1万石(後に子が幼少のため5000石に減知)の知行を与えられ、旗本交代寄合として存続した。
5代当主。満家の子。足利義政から「義」の字を賜り、義春とした。以後の歴代当主は「義」の字を偏諱されている。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
最上義春 | 大名 | 1430 | 50 | 7 | 94 | 106 | 98 | 66 | 42 | C | C | D | 17 | |
最上義秋 | 部将 | 1435 | 50 | 7 | 100 | 90 | 100 | 60 | 38 | C | D | E | 17 | |
中野満基 | 家老 | 1410 | 70 | 10 | 124 | 102 | 104 | 68 | 36 | C | D | E | 17 | |
最上満氏 | 侍大将 | 1436 | 50 | 7 | 96 | 80 | 80 | 54 | 42 | D | D | E | 17 | |
最上義淳 | 1469 | 1455 | 50 | 9 | 68 | 80 | 90 | 62 | 30 | E | E | E | 17 | |
最上義定 | 1490 | 1476 | 50 | 6 | 44 | 84 | 76 | 48 | 11 | D | D | E | 17 |
大崎氏は斯波氏傍流の斯波家兼を祖とする。当初は畿内近円で活動していたが、後に陸奥に本拠を移し、その長男直持が下総国香取郡大崎(現香取市大崎)に因み大崎氏を称した。足利の流れをくむ(斯波氏は足利氏の分家である)大崎氏は奥州探題として権威を及ばせ、分家の最上氏を羽州探題にして支配を確立させた。
しかし他家との抗争やや幕府と鎌倉府の対立に巻き込まれ、大崎氏は一有力国人へと転落する。さらに戦国時代に突入すると葛西氏との抗争もあって次第に衰退し、ついには伊達氏の従属下にされる。のちに分家筋の最上義光の支援で独立に成功するも、12代当主大崎義隆が小田原征伐に参陣せず、改易の憂き目にあう。その後石田三成を介して所領回復を求めるも、国元で葛西大崎一揆が発生し再興が果たされることはなかった。
7代当主。1424年に左衛門佐に任官。第6代将軍・足利義教の偏諱を受け、教兼へ改名。寛正・文明年間に精力的に文書を発給、探題大崎氏最後の栄光を現出させた。多数の子女に恵まれ、多くの氏に入嗣させている。その一人が高水寺斯波氏当主、斯波詮高である。
斯波氏も参照
尾張に本領を持ち、足利氏の有力一門でもあった斯波氏と奥州の繋がりは南北朝時代まで遡る。宗家4代当主斯波高経の弟、斯波家兼の系統である大崎氏、最上氏、黒川氏、天童氏、高経長男の系統だと伝えられる高水寺斯波家などがあり、特に大崎・最上両氏は奥羽の探題職を歴任した。斯波氏の勢力が大きかった時代は、これら一門も大いに栄えていたという。
高水寺城(現岩手県紫波町高水寺)を拠点に栄えた斯波氏(奥州斯波御所家)の一族は1335年鎌倉で敗死した高経の子、斯波家長の直系子孫だというが、『続群書類従』には簡易な系図が挙げられてはいるものの裏付けとなる資料も乏しく系図は必ずしもはっきりしない。南朝方についた河村氏を下し、斯波郡一帯を傘下に収める。書札礼でも奥州探題大崎氏と同格であった。
『奥南落穂集』によれば、大崎氏第7代当主大崎教兼の子、斯波詮高(しばあきたか)に始まるとされる。その後の南部氏と渡り合いながらも勢力を持ちつつあった。しかし南部氏の圧力が高まると、九戸氏から婿を受け取るなどしたが、斯波詮直の代になって確執が高まり、南部領に攻め入るも反撃にあう。最終的に南部信置に滅ぼされ、大崎氏のもとへ逃亡。ここに高水寺斯波氏は滅亡した。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
大崎教兼 | 大名 | 1425 | 80 | 8 | 150 | 60 | 80 | 68 | 42 | D | C | E | 58 | |
大崎政兼 | 侍大将 | 1445 | 60 | 8 | 100 | 64 | 60 | 52 | 37 | D | D | E | 58 | |
大崎義兼 | 1475 | 1461 | 70 | 9 | 50 | 100 | 90 | 65 | 26 | D | D | E | 58 | |
大崎高兼 | 1493 | 1479 | 50 | 8 | 100 | 80 | 66 | 63 | 54 | D | E | E | 58 | |
斯波詮高 | 1490 | 1476 | 80 | 12 | 142 | 124 | 160 | 71 | 76 | D | C | E | 流出 | 72 |
第11代当主。1412年に父の死により家督を継ぐと、鎌倉府(足利持氏)に対して反旗を翻し、篠川・稲村御所を襲撃(伊達持宗の乱)。怒った持氏は二本松畠山氏に討伐を命じるが、完全に討伐することはできなかった。以後は幕府に帰順し、寺社造営などで功を挙げたほか、幕府の援軍要請に応じるなどした。まさかの14世紀生まれ。おそらく本家信長の野望で(古武将やボーナス武将などを除けば)14世紀生まれなどでるはずないだろう…というか本家にも応仁の乱シナリオの実装お願いします。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
伊達持宗 | 大名 | 1394 | 80 | 4 | 184 | 180 | 176 | 92 | 98 | C | C | E | 一喝 流出 流言 煽動 挑発 |
7 |
伊達成宗 | 家老 | 1435 | 60 | 7 | 152 | 136 | 150 | 68 | 72 | C | C | E | 流出 煽動 |
7 |
伊達尚宗 | 部将 | 1453 | 70 | 9 | 160 | 170 | 164 | 95 | 85 | C | C | E | 煽動 弁舌 |
7 |
伊達稙宗 | 1502 | 1488 | 80 | 7 | 156 | 118 | 134 | 79 | 85 | C | C | E | 弁舌 | 7 |
小梁川盛宗 | 侍大将 | 1440 | 60 | 8 | 120 | 114 | 120 | 48 | 42 | C | D | E | 7 | |
小梁川宗朝 | 1483 | 1469 | 90 | 13 | 130 | 110 | 154 | 56 | 62 | D | D | E | 7 | |
留守郡宗 | 侍大将 | 1448 | 50 | 12 | 100 | 110 | 90 | 55 | 36 | D | D | E | 7 | |
鬼庭元実 | 1489 | 1474 | 80 | 8 | 130 | 140 | 130 | 45 | 32 | C | C | E | 143 |
※伊達持宗は1393年生まれだが、システムの都合上(1454年以前に設定することが不可)、1394年(ゲーム上1454年)生まれとしている
葛西氏は秩父平氏一族の豊島氏の分家で、豊島清元の三男葛西清重を祖とする。清重は下総国葛西(現東京都葛飾区、なお当時は同区の葛西よりも広い範囲を指した。Wikipedia参照)を領した。清重は源頼朝の御家人となり、奥州合戦で功を立て奥州藤原氏滅亡後、陸奥国に所領を得た。本拠を当初は石巻に置いたが、後に登米郡寺地(現紛らわしい地名として有名な登米市登米町寺池)に移転。
南北朝時代に勢威を広げ、さらには室町初期の当主葛西満信が宇都宮氏広を破って領土を拡大、さらに伊達氏と手を組んで大崎氏と対抗した。しかし、決着がつかず伊達の介入や家臣の独立などもあって領国内の統制もうまくいかなくなった。最終的には17代当主葛西晴信の代に小田原征伐に参陣しなかったことを咎められ改易、その後葛西大崎一揆を経て大名としての葛西氏は滅亡した。
なお、室町時代から戦国初期にかけて、石巻に本拠を構える「石巻系葛西氏」と寺池に本拠を構える「寺池系葛西氏」に分裂し内紛状態にあったという説もあるが、過程や経緯は全く不明であり詳細については推測の域を出ない。これは奥州仕置や葛西大崎一揆で史料が散逸してしまったこと、滅亡後伊達氏や南部氏に仕えた庶子がそれぞれ独自の口伝・相伝で系譜を作成し、研究を混乱させていることが大きいだろう。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
葛西朝信 | 大名 | 1427 | 60 | 8 | 120 | 100 | 120 | 55 | 57 | D | D | E | 57 | |
葛西尚信 | 部将 | 1451 | 40 | 6 | 130 | 98 | 100 | 45 | 40 | D | D | E | 57 | |
葛西政信 | 部将 | 1433 | 80 | 5 | 120 | 68 | 168 | 52 | 78 | D | D | E | 暗殺 | 57 |
葛西晴重 | 1483 | 1469 | 70 | 9 | 80 | 40 | 132 | 52 | 50 | D | E | E | 流言 | 57 |
葛西晴胤 | 1511 | 1497 | 60 | 8 | 114 | 84 | 92 | 66 | 38 | D | D | E | 57 |
健氏(たけうじ)の代は上杉家の勢力下であり、上杉氏を称していた。
大宝寺淳氏の子として誕生。父の築いた勢力基盤を元に更なる勢力拡大を目指し、幕府に貢物を送って右京亮に任じられた。応仁の乱の際は上洛を試みたが、伊達氏と蘆名氏に阻まれる。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
大宝寺健氏 | 大名 | 1425 | 60 | 5 | 130 | 80 | 80 | 62 | 58 | D | D | E | 66 | |
大宝寺政氏 | 部将 | 1453 | 60 | 7 | 132 | 120 | 146 | 40 | 73 | C | C | E | 流言 挑発 |
66 |
大宝寺澄氏 | 1493 | 1479 | 50 | 4 | 70 | 58 | 122 | 25 | 47 | D | D | E | 一喝 | 66 |
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
二本松持重 | 大名 | 1410 | 60 | 5 | 100 | 86 | 100 | 65 | 42 | C | D | E | 63 | |
二本松政国 | 部将 | 1440 | 60 | 7 | 104 | 96 | 120 | 55 | 45 | D | D | E | 63 | |
二本松村国 | 1493 | 1479 | 70 | 7 | 118 | 110 | 64 | 66 | 57 | D | D | E | 63 | |
新城村尚 | 1497 | 1483 | 50 | 10 | 132 | 102 | 86 | 70 | 48 | C | D | E | 63 |
相馬家12代当主。武勇に優れ、白河氏や岩城氏と同盟を組みながら標葉氏と対立。標葉氏打倒を目の前にして病死した。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
相馬高胤 | 大名 | 1424 | 70 | 8 | 130 | 174 | 150 | 68 | 86 | D | A | E | 焼討 一喝 |
64 |
相馬盛胤 | 1490 | 1476 | 50 | 9 | 100 | 166 | 98 | 71 | 70 | C | B | E | 一喝 | 64 |
木幡定清 | 侍大将 | 1447 | 70 | 5 | 120 | 80 | 100 | 56 | 25 | D | E | E | 255 | |
泉田胤直 | 1487 | 1473 | 60 | 5 | 42 | 100 | 54 | 57 | 65 | D | E | E | 165 |
岩城氏は平安末期に陸奥国南部(浜通り夜ノ森以南、現双葉郡南部およびいわき市)に、常陸平氏の一族だと称した岩城則道が置かれたことに始まる。則道の正室は奥州藤原氏藤原清衡の養娘、徳姫であり奥州藤原氏との関係も深かった。また清原成衡は岩城氏の出身であり、出羽清原氏との関係も深い。
地頭であった岩城氏は預所の伊賀氏と度々訴訟で争っていた。伊賀氏は有力御家人であったが、南北朝時代に衰退し、その後は岩城氏(岩城隆泰)が台頭。その後はしばらく動静が不明瞭となるが、嘉吉の内紛で岩城隆忠が惣領となりまとめあげる。その後、10代当主岩城親隆や11代当主岩城常隆の代に内紛に介入し、勢力を拡大する。
しかし、15代当主の岩城重隆の代となると周辺勢力が乱立し、さらには佐竹氏との同族化が進んだ。重隆は娘久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その長男親隆を養嗣子に迎えた。16代親隆及び17代常隆の代には伊達輝宗・伊達政宗が台頭し、宿敵でもあった田村氏と婚姻関係を結んだ伊達と対立。小田原征伐には参陣し領国を安堵されるも、関ヶ原では18代貞隆の実兄佐竹義宣の命に従い上杉征伐に参加しなかったため所領を没収、佐竹ともども秋田へ転封させられる。その後、常隆の子吉隆は佐竹義宣の養子となり2代目藩主、岩城宣隆となった。その後は佐竹一族の多賀谷氏や常隆の実子の系統である岩谷堂伊達氏のから養子を迎えながら、幕末を迎えた。
便宜上、標葉氏も岩城氏の家臣としている。
岩城氏第10代当主。1440年、結城合戦での軍忠を評され、足利義教から感状を下賜された(この時、子常隆も賞されている)。白河結城氏や結城氏と組んで相馬高胤に対抗したほか、同族の標葉氏を抑え込むなど、勢力拡大に尽力した。
岩城氏第11代当主。親隆の子。佐竹氏に助太刀し山入氏義討伐に協力したほか、白河氏の内訌や永正の乱に介入、岩城氏の全盛期を築いた。また子供にも恵まれ、周囲の家と縁戚関係を築いた。
※なお、(応仁の乱時代の東国を舞台としたシナリオ)戦国史「応仁大乱記」によると、隆忠(親隆の父)=1416年生まれ、親隆=1443年生まれ、常隆=1466年生まれと、また信長の野望蒼天禄では常隆=1451年生まれ、由隆=1477年生まれとあるが、これでは結城合戦以前の生まれとなっている。もっとも、応仁大乱記では生没年が明らかにおかしいところがある(父子とも150歳まで生きていることになる)ため、これは参考としなかった。なお、岩城氏は代々下総守を称しており、それらの功績と混同した可能性もあると弁護しておく。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
岩城親隆 | 大名 | 1400 | 80 | 7 | 150 | 170 | 120 | 90 | 85 | B | B | E | 流言 焼討 一喝 |
154 |
岩城常隆 | 部将 | 1426 | 90 | 7 | 174 | 136 | 160 | 86 | 90 | C | C | E | 流言 焼討 |
154 |
岩城由隆 | 1481 | 1466 | 80 | 9 | 144 | 70 | 64 | 60 | 45 | D | E | E | 154 | |
岩城重隆 | 1514 | 1500 | 70 | 6 | 130 | 138 | 114 | 72 | 47 | C | D | D | 154 | |
標葉清隆 | 部将 | 1423 | 70 | 8 | 120 | 68 | 110 | 60 | 38 | D | D | D | 165 | |
標葉隆成 | 侍大将 | 1451 | 50 | 8 | 36 | 140 | 50 | 55 | 75 | D | C | E | 焼討 | 165 |
標葉隆直 | 足軽頭 | 1454 | 70 | 4 | 130 | 120 | 70 | 50 | 50 | D | D | E | 165 |
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
蘆名盛高 | 大名 | 1448 | 60 | 4 | 132 | 132 | 160 | 73 | 55 | D | C | E | 流言 | 19 |
蘆名盛滋 | 1496 | 1482 | 40 | 3 | 108 | 142 | 108 | 68 | 71 | C | C | E | 19 | |
猪苗代盛元 | 侍大将 | 1448 | 70 | 8 | 90 | 84 | 90 | 56 | 31 | D | D | E | 19 |
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
二階堂行光 | 大名 | 1445 | 40 | 6 | 110 | 126 | 120 | 60 | 55 | C | D | E | ||
二階堂行詮 | 1474 | 1460 | 60 | 8 | 120 | 110 | 120 | 65 | 57 | D | D | E | 131 | |
二階堂行景 | 1492 | 1478 | 30 | 8 | 90 | 120 | 80 | 62 | 55 | D | D | E | ||
二階堂晴行 | 1496 | 1482 | 50 | 6 | 62 | 112 | 76 | 58 | 45 | E | E | E | 131 |
この頃の田村氏は白河氏と組みつつ、田村郡を統一へと導いていた。
その後も周辺勢力と組みつつ、最終的には伊達家臣となった。
名前 | 身分/登場年 | 設定生年 | 寿命 | 義理 | 政才 | 戦才 | 智才 | 魅力 | 野望 | 足軽 | 騎馬 | 水軍 | 技能 | 一門番号 |
白河政朝 | 大名 | 1440 | 70 | 7 | 128 | 42 | 64 | 67 | 53 | E | E | E | 40 | |
白河顕頼 | 1489 | 1475 | 50 | 8 | 112 | 52 | 50 | 57 | 46 | D | D | E | 40 | |
大塚綱久 | 1504 | 1490 | 80 | 7 | 64 | 96 | 40 | 54 | 31 | D | E | E | 255 | |
田村直顕 | 家老 | 1430 | 80 | 7 | 124 | 96 | 104 | 60 | 55 | D | D | E | 155 | |
田村盛顕 | 部将 | 1450 | 60 | 6 | 80 | 90 | 90 | 50 | 45 | D | E | E | 155 | |
田村義顕 | 1486 | 1472 | 90 | 7 | 88 | 132 | 154 | 58 | 56 | D | C | E | 煽動 | 155 |